太政大臣
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日語寫法 | |
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日語原文 | 太政大臣 |
假名 | だいじょう だいじん、 だじょうだいじん |
平文式罗马字 | Daijō Daijin, Dajō Daijin |
太政大臣,日本律令官制名,是律令制度下最高官位,宰相级职务。定员一人,位階相當於正一位或從一位。由亲王一品或诸王、诸臣中正从一位者充任,位居三公之首,辅佐天皇,总理国政。为非常设官职。令制规定“如无其人则阙”,故别称“则阙”。历史上实任者甚少。天智天皇时,大友皇子首任。758年(天平宝字二年)由藤原仲麻吕改称太师,764年复旧称。
理論上為律令制度下的的最高長官,但自從關白出現後,太政大臣的政治力遭到架空、成為一個「榮銜」。戰國時代,豐臣秀吉、德川家康曾出任此職。而織田信長在逝世後也被追贈此職。江戶時代德川秀忠和德川家齊兩位征夷大將軍生前出任此職;其他將軍除了德川慶喜以外死後都追贈此職。
日本最後一任太政大臣是三條實美,任職於明治天皇明治四年(1871年)至明治十八年(1885年)。君主立憲制實施後被總理大臣(首相)取代。
倭訓作「おおまつりごとのおおまえつぎみ」[1]。其中「まつりごと」雖然可以解釋為「祭事」,但因為日本上古時代政教合一,所以又通「政」[2]。「まえつぎみ」則是繼承自古墳時期「大夫」一詞而來[3]。
太政大臣列表
- 原則上根據《公卿補任》,酌情參考其他的資料訂正(以下日期皆為陰曆)
名 | 就任 | 離任 (※死亡當天的日期標記) | 在任時天皇 | 備註 |
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大宝令以前的太政大臣 | ||||
大友皇子 | 天智天皇10年1月5日 (671年2月19日) | 天智天皇10年12月3日 (672年1月7日) | 天智 | 皇位繼承(稱制か)に伴い離任 |
高市皇子 | 持統天皇4年7月5日 (690年8月15日) | 持統天皇10年7月10日※ (696年8月13日) | 持統 | |
依據大宝令・養老令任命的太政大臣 | ||||
恵美押勝 (藤原仲麻呂) | 天平宝字4年1月4日 (760年1月26日) | 天平宝字8年9月11日 (764年10月10日) | 淳仁 | 太師 孝謙上皇に対する謀反により解官される |
道鏡 | 天平神護元年閏10月2日 (765年11月19日) | 天平神護2年10月20日 (766年11月26日) | 稱德 | 太政大臣禪師 法王就任に伴い離任 |
藤原良房 | 齊衡4年2月19日 (857年3月18日) | 貞觀14年9月2日※ (872年10月7日) | 文徳、清和 | 清和天皇元服加冠 封國美濃國、謚號忠仁公 |
藤原基經 | 元慶4年12月4日 (881年1月7日) | 寛平3年1月13日※ (891年2月24日) | 陽成、光孝、宇多 | 陽成天皇元服加冠 封國越前國、謚號昭宣公 |
藤原忠平 | 承平6年8月19日 (936年9月7日) | 天暦3年8月14日※ (949年9月9日) | 朱雀、村上 | 朱雀天皇元服加冠 封國信濃國、謚號貞信公 |
藤原實賴 | 康保4年12月13日 (968年1月15日) | 天祿元年5月18日※ (970年6月24日) | 冷泉、円融 | 封國尾張國、謚號清慎公 |
藤原伊尹 | 天祿2年11月2日 (971年11月22日) | 天祿3年11月1日※ (972年12月9日) | 円融 | 円融天皇元服加冠 封國三河國、謚號謙德公 |
藤原兼通 | 天延2年2月28日 (974年3月24日) | 貞元2年11月8日※ (977年12月20日) | 円融 | 封國遠江國、謚號忠義公 |
藤原賴忠 | 貞元3年10月2日 (978年11月5日) | 永延3年6月26日※ (989年7月31日) | 円融、花山、一条 | 封國駿河國、謚號廉義公 |
藤原兼家 | 永祚元年12月20日 (990年1月19日) | 永祚2年5月5日 (990年5月31日) | 一条 | 一条天皇元服加冠 |
藤原為光 | 正暦2年9月7日 (991年10月17日) | 正暦3年6月16日※ (992年7月18日) | 一条 | 封國相模國、謚號恒徳公 |
藤原道長 | 寛仁元年12月4日 (1017年12月24日) | 寛仁2年2月9日 (1018年2月27日) | 後一条 | 後一条天皇元服加冠 |
藤原公季 | 治安元年7月25日 (1021年9月4日) | 長元2年10月17日※ (1029年11月25日) | 後一条 | 封國甲斐國、謚號仁義公 |
藤原頼通 | 康平4年12月13日 (1062年1月26日) | 康平5年9月2日 (1062年10月7日) | 後冷泉 | |
藤原教通 | 延久2年3月23日 (1070年4月6日) | 延久3年8月10日 (1071年9月6日) | 後三条 | |
藤原信長 | 承暦4年8月14日 (1080年8月31日) | 寛治2年11月23日 (1089年1月7日) | 白河、堀河 | |
藤原師實 | 寛治2年12月14日 (1089年1月28日) | 寛治3年4月25日 (1089年6月6日) | 堀河 | 堀河天皇元服加冠 |
藤原忠實 | 天永3年12月14日 (1113年1月3日) | 天永4年4月14日 (1113年5月30日) | 鳥羽 | 鳥羽天皇元服加冠 |
源雅實 | 保安3年12月17日 (1123年1月16日) | 天治元年7月7日 (1124年8月18日) | 鳥羽、崇德 | |
藤原忠通 | 大治3年12月17日 (1129年1月9日) | 大治4年4月10日 (1129年4月30日) | 崇德 | 崇德天皇元服加冠 |
藤原忠通 (還任) | 久安5年10月25日 (1149年11月26日) | 久安6年3月13日 (1150年4月12日) | 近衛 | 近衛天皇元服加冠 |
三条實行 | 久安6年8月21日 (1150年9月13日) | 保元2年8月9日 (1157年9月14日) | 近衛、後白河 | |
藤原宗輔 | 保元2年8月19日 (1157年9月24日) | 永暦元年7月20日 (1160年8月23日) | 後白河、二条 | |
藤原伊通 | 永暦元年8月11日 (1160年9月12日) | 長寛3年2月3日 (1165年3月16日) | 二条 | |
平清盛 | 仁安2年2月11日 (1167年3月4日) | 仁安2年5月17日 (1167年6月13日) | 六条 | |
藤原忠雅 | 仁安3年8月10日 (1168年9月13日) | 嘉應2年6月6日 (1170年7月21日) | 高倉 | |
松殿基房 | 嘉應2年12月14日 (1171年1月21日) | 嘉應3年4月20日 (1171年5月26日) | 高倉 | 高倉天皇元服加冠 |
藤原師長 | 安元3年3月5日 (1177年4月5日) | 治承3年11月17日 (1179年12月17日) | 高倉 | 平清盛のクーデタにより解官・流配される |
九条兼實 | 文治5年12月14日 (1190年1月21日) | 建久元年4月19日 (1190年5月24日) | 後鳥羽 | 後鳥羽天皇元服加冠 |
藤原兼房 | 建久2年3月28日 (1191年4月23日) | 建久7年12月9日 (1196年12月30日) | 後鳥羽 | |
藤原頼實 | 正治元年6月22日 (1199年7月16日) | 元久元年12月7日 (1204年12月29日) | 土御門 | |
九条良經 | 元久元年12月14日 (1205年1月5日) | 元久2年4月27日 (1205年5月17日) | 土御門 | 土御門天皇元服加冠 |
藤原頼實 (還任) | 承元2年12月17日 (1209年1月24日) | 承元3年1月21日 (1209年2月26日) | 土御門 | 皇太子(順徳天皇)元服加冠 |
三条公房 | 建保6年10月9日 (1218年10月29日) | 承久3年12月20日 (1222年2月2日) | 順徳、仲恭、後堀河 | |
近衛家實 | 承久3年12月20日 (1222年2月2日) | 承久4年4月10日 (1222年5月22日) | 後堀河 | 後堀河天皇元服加冠 |
西園寺公經 | 貞應元年8月13日 (1222年9月19日) | 貞應2年4月2日 (1223年5月3日) | 後堀河 | |
九条良平 | 嘉禎4年7月20日 (1238年8月31日) | 暦仁2年1月19日 (1239年2月24日) | 四条 | |
近衛兼經 | 仁治元年12月14日 (1241年1月27日) | 仁治2年12月20日 (1242年1月22日) | 四条 | 四条天皇元服加冠 |
西園寺實氏 | 寛元4年3月4日 (1246年3月29日) | 寛元4年12月9日 (1247年1月17日) | 後深草 | |
久我通光 | 寛元4年12月24日 (1247年2月1日) | 宝治2年1月17日 (1248年2月13日) | 後深草 | |
鷹司兼平 | 建長4年11月3日 (1252年12月5日) | 建長5年11月8日 (1253年11月30日) | 後深草 | 後深草天皇元服加冠 |
徳大寺實基 | 建長5年11月24日 (1253年12月16日) | 建長6年2月11日 (1254年3月1日) | 後深草 | |
西園寺公相 | 弘長元年12月15日 (1262年1月7日) | 弘長2年7月2日 (1262年7月19日) | 亀山 | |
花山院通雅 | 建治元年8月27日 (1275年9月18日) | 建治2年3月29日 (1276年4月14日) | 後宇多 | |
鷹司兼平 (還任) | 建治2年12月14日 (1277年1月19日) | 建治3年4月26日 (1277年5月30日) | 後宇多 | 後宇多天皇元服加冠 |
鷹司基忠 | 弘安8年4月25日 (1285年5月30日) | 弘安10年8月13日 (1287年9月21日) | 後宇多 | |
堀川基具 | 正應2年8月29日 (1289年9月15日) | 正應3年3月15日 (1290年4月25日) | 伏見 | |
西園寺實兼 | 正應4年12月25日 (1292年1月6日) | 正應5年12月28日 (1293年2月5日) | 伏見 | |
洞院公守 | 正安元年6月2日 (1299年6月30日) | 正安元年10月13日 (1299年11月7日) | 後伏見 | |
二条兼基 | 正安元年11月21日 (1299年12月14日) | 正安2年4月19日 (1300年5月8日) | 後伏見 | 後伏見天皇元服加冠 |
土御門定實 | 正安3年6月2日 (1301年7月8日) | 正安4年7月[4] (1302年7月) | 後二条 | |
徳大寺公孝 | 乾元元年11月22日 (1302年12月11日) | 嘉元2年3月13日 (1304年4月18日) | 後二条 | |
一条實家 | 嘉元4年12月6日 (1307年1月10日) | 延慶2年10月15日 (1309年11月21日) | 後二条、花園 | |
大炊御門信嗣 | 延慶2年10月15日 (1309年11月21日) | 延慶3年12月15日 (1311年1月5日) | 花園 | |
鷹司冬平 | 延慶3年12月15日 (1311年1月5日) | 延慶4年4月24日 (1311年5月13日) | 花園 | 花園天皇元服加冠 |
三条實重 | 文保2年8月24日 (1318年9月19日) | 元應元年10月18日 (1319年11月30日) | 後醍醐 | |
久我通雄 | 元應元年10月18日 (1319年11月30日) | 元亨3年5月2日 (1323年6月6日) | 後醍醐 | |
鷹司冬平 (還任) | 元亨3年11月9日 (1323年12月7日) | 嘉暦2年1月19日※ (1327年2月11日) | 後醍醐 | |
今出川兼季 | 正慶元年11月8日 (1332年11月26日) | 正慶2年5月17日 (1333年6月29日) | 光嚴 | 光嚴天皇廃位に伴い任官を取り消される |
久我長通 | 曆應3年12月27日 (1341年1月15日) | 暦應5年2月29日 (1342年4月5日) | 光明 | |
洞院公賢 | 貞和4年10月22日 (1348年11月13日) | 觀應元年3月18日 (1350年4月25日) | 光明、崇光 | |
久我長通 (南朝) | 正平6年12月 (1352年1月) | 正平7年 (1352年) | 後村上 | 正平一統に伴う任官 |
洞院公賢 (南朝) | 正平8年6月 (1353年7月) | 正平9年? (1354年?) | 後村上 | 南軍の京都回復に伴う任官 |
西園寺公重 (南朝) | (年月日不明) | 正平19年7月以降 (1364年7月以降) | 後村上 | |
久我通相 | 貞治5年8月29日 (1366年10月4日) | 應安元年3月21日 (1368年4月8日) | 後光嚴 | |
二条良基 | 永徳元年7月23日 (1381年8月13日) | 至徳4年1月8日 (1387年1月28日) | 後圓融、後小松 | 後小松天皇元服加冠 |
徳大寺實時 | 明徳5年6月5日 (1394年7月3日) | 應永元年12月25日 (1395年1月16日) | 後小松 | |
足利義満 | 應永元年12月25日 (1395年1月16日) | 應永2年6月3日 (1395年6月20日) | 後小松 | |
久我具通 | 應永2年6月3日 (1395年6月20日) | 應永3年2月3日 (1396年3月12日) | 後小松 | |
三条實冬 | 應永9年8月22日 (1402年9月19日) | 應永14年2月6日 (1407年3月15日) | 後小松 | |
徳大寺公俊 | 應永27年閏1月13日 (1420年2月26日) | 應永27年3月16日 (1420年4月28日) | 称光 | |
二条持基 | 永享4年7月25日 (1432年8月21日) | 永享5年2月26日 (1433年3月17日) | 後花園 | 後花園天皇元服加冠 |
一条兼良 | 文安3年1月29日 (1446年2月24日) | 宝徳2年4月28日 (1450年6月8日) | 後花園 | |
久我清通 | 享徳元年10月8日 (1452年11月19日) | 享徳2年2月2日 (1453年3月12日) | 後花園 | |
西園寺公名 | 享徳4年6月6日 (1455年7月20日) | 康正3年8月28日 (1457年9月16日) | 後花園 | |
二条持通 | 長祿2年7月25日 (1458年9月2日) | 長祿4年6月27日 (1460年7月15日) | 後花園 | |
近衛房嗣 | 寛正2年12月25日 (1462年1月25日) | 寛正3年 (1462年) | 後花園 | |
久我通博 | 文明13年7月26日 (1481年8月21日) | 文明14年10月7日※ (1482年11月17日) | 後土御門 | |
鷹司政平 | 文明17年3月20日 (1485年4月5日) | 文明17年4月19日 (1485年6月1日) | 後土御門 | |
近衛政家 | 長享2年9月17日 (1488年10月21日) | 延徳2年3月2日 (1490年3月22日) | 後土御門 | |
一条冬良 | 明應2年1月6日 (1493年1月23日) | 明應6年7月12日 (1497年8月10日) | 後土御門 | |
徳大寺實淳 | 永正6年12月19日 (1510年1月28日) | 永正8年2月19日 (1511年3月11日) | 後柏原 | |
近衛尚通 | 永正11年8月12日 (1514年8月31日) | 永正13年12月27日 (1517年1月19日) | 後柏原 | |
花山院政長 | 永正15年5月28日 (1518年7月5日) | 永正18年3月27日 (1521年5月3日) | 後柏原 | |
三条實香 | 天文4年8月28日 (1535年9月25日) | 天文5年6月25日 (1536年7月13日) | 後奈良 | |
近衛稙家 | 天文6年12月21日 (1538年1月21日) | 天文10年4月29日 (1541年5月24日) | 後奈良 | |
近衛前久 | 天正10年2月2日 (1582年2月24日) | 天正10年5月 (1582年5月) | 正親町 | |
豊臣秀吉 | 天正13年12月25日 (1586年2月2日) | 慶長3年8月18日※ (1598年9月18日) | 後陽成 | |
近衛基熙 | 宝永6年10月25日 (1709年11月15日) | 宝永6年12月9日 (1710年1月8日) | 中御門 | |
近衛家熙 | 宝永7年12月25日 (1711年2月12日) | 正徳元年7月28日 (1711年9月10日) | 中御門 | 中御門天皇元服加冠 |
近衛家久 | 享保18年1月25日 (1733年3月10日) | 享保18年12月27日 (1734年1月31日) | 中御門 | |
一条兼香 | 延享3年2月28日 (1746年4月18日) | 寛延4年7月29日 (1751年9月18日) | 櫻町、桃園 | 儲君(桃園天皇)元服加冠 |
近衛内前 | 明和5年5月25日 (1768年7月9日) | 明和7年10月15日 (1770年12月1日) | 後櫻町 | 皇太子(後桃園天皇)元服加冠 |
近衛内前 (還任) | 明和8年11月15日 (1771年12月20日) | 安永7年2月8日 (1778年3月6日) | 後桃園 | |
九条尚實 | 安永9年12月25日 (1781年1月23日) | 天明元年5月20日 (1781年6月11日) | 光格 | 光格天皇元服加冠 |
鷹司政通 | 天保13年8月22日 (1842年9月26日) | 嘉永元年9月22日 (1848年10月18日) | 仁孝、孝明 | |
武家官位としての太政大臣 | ||||
徳川家康 | 元和2年3月17日[5] (1616年5月2日) | 元和2年4月17日※ (1616年6月1日) | 後水尾 | |
徳川秀忠 | 寛永3年8月18日[6] (1626年10月8日) | 寛永9年1月24日※ (1632年3月14日) | 後水尾、明正 | |
德川家齊 | 文政10年2月16日 (1827年3月13日) | 天保12年閏1月30日※ (1841年3月22日) | 仁孝 | |
明治時代の太政官制における太政大臣 | ||||
三条實美 | 明治4年7月29日 (1871年9月13日) | 1885年(明治18年)12月22日 | 明治 | 内閣制度発足に伴い内大臣に転任 |
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^ https://dictionary.goo.ne.jp/jn/28235/meaning/m0u/
^ https://dictionary.goo.ne.jp/jn/208969/meaning/m0u/まつりごと/
^ https://kotobank.jp/word/大夫-91924
^ 『一代要記』は同年4月6日(1302年5月4日)とする。
^ これは宣旨に記載された日付で、實際は同年3月21日(1616年5月6日)に任大臣宣下の陣儀が行われた。
^ これは宣旨に記載された日付で、實際は同年9月12日(1626年10月31日)に任大臣宣下の陣儀が行われた。